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モスクワ北京急行
第3/4列車のお話
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Author:Mr.Problem
東京移住。
職業:雲のジュウザ
根本思想:世界人民大団結万歳(笑)
多少、あちこちに行ってましたが、。結婚してからはめっきり諸外国へ出ることが少なくなりました。せめて一年に一度くらいは海外には出たい。元パッカーの習性で旅行は旗持ちではなくほぼ個人旅行。基本的には今世界で起こっていることについて思うところや、今まで行った街の印象を徒然に書いていきます。
みなさんが世の中について考える何かの助けになれば。
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africafeといいます。あちこちさまよって、このサイト発見しました。
23年前、学生最後の時期にヨーロッパを放浪し、ヘルシンキから鉄道利用で上海経由で日本へ帰りました。
その際、モスクワ-北京間で利用したのがこの列車です。懐かしいの一言です。
HP中の内容はほぼその昔と似たようなモノですが、この列車の愛称(列車名)ソ連国内は「ポイーズド、ノーミルティチェーリ、メジナロードナヤポイーズダ、マスコフスキー・ペキーニ フ ウランバートル モンごリア(モンゴルスカバだったかも)」(第4列車 モンゴル、ウランバートル廻り、国際列車モスクワ・北京号」という駅アナウンスや表示を眼や耳にしました。
中国人の列車長と仲良くなり、この話をすると、「正式名称は第3/4列車だが、満州里廻りのモスクワ・北京間の列車は『極東号ヴォストーク』て言うわな。ウランバートル廻りの列車を『モスクワ・北京号』て呼んでいるのは知っている。」同じダイヤで運行されている、モスクワ・ウランバートル間の列車は『草原号ステッペ』て言う名前があるんだが、でもこの列車は中国国鉄の運行なので、正式な呼び方じゃないウランバートル行はソ連の管轄だ。」と歯切れの悪い説明でした。
当時、ソ連国内だけのこの列車の利用はモスクワ-ウランウデ-ナウシキ間の車両に限定され、第3/4列車以外にソ連国鉄(もしくはモンゴル国鉄と共同運行?)
仕立てのウランバートル行は制限がなかったのではないでしょうか。
モンゴル国内は『国際旅客』のみが乗車可能(モンゴル国内相互間の利用は不可、連結されているモンゴル国鉄車両の意味が食堂車以外不明、恐らく国際列車ゆえの工作員専用車としか思えません)
モンゴル国内の停車駅、ウランバートルを例外として、サインシャンダー、チョイルなど、全く無人だったのはそう言う事情かと。
ちなみにこの列車、外国人は除き、中国人民の中国国内相互利用も不可でした。旅券を所持しない利用客は、この列車自体を利用できなかったはずです。
20数年前、余程の地位と事情がなければ、一般人民に旅券など発給される事はなかったはずです。それを考えると、隔世の感がしますが。
高包車両が発券制限になっているのは、当時からの名残からかも知れません。
また、23年前のメモにはこの高包車は、確かに連結されていましたが、時刻表には連結の事実も記載されておらず、外交官か軍関係者と言った高級公務員専用車という位置づけだったのではないでしょうか。
一般外国人は4人部屋X8室、同じ車両の上段をたたんだ2人部屋X8室の軟臥のチョイスで、個室X8人定員の高包車は謎の存在でした、ただ、貴ページ上の高包車より、遙かにグレードの高い車両だった記憶があります。
深紅のワインレッドの絨毯、ピカピカに磨き上げられた真鍮の金具、内装はマホガニー仕上げでした。
東欧系の軍人か外交官らしき乗客一名しか利用者はなく、停車中や運行中にこの車両に立ち入ると、車掌に追い出されました。
最後にソ連・モンゴル国境の停車場ドーゾルヌィとモンゴル側キワキワ間にある停車場はドルージバという名前だったと記憶しています。『駅』ではなく、出国時の検査か臨検用の停車場だとおもいます。
何もありませんが、ドーゾルヌィにもドルージバにも短時間ですが停車し、国境警備隊歩哨が最後の検査を凍てつく中、黙々としておりました。
当時、ナウシキでは深夜にも拘わらず、構内の掘っ立て小屋みたいな銀行では、ルーブルのドルなどへの再両替業務をやっておりました。レートはモスクワでの交換レート等価。さすが社会主義国、と感心した思い出があります。
長くなってしまいましたが、メモを読み返して何かわかりましたら、またメール差し上げます。